「Code」とか「Free Culture」とかの著者レッシグたんのBlogでアジりまくりの面白い記事があったので、要約だけでも訳してのっけとこうかと思ってモタモタしてたら、今日、日本語版が出てた。早いですねー。遅いですねー。<ぼく
CNET Japan:Google訴えられる
気持ちはわかるが、Google Printに関しては誰がどう見てもGoogleに分があるのではないか。と思った。
「Code」とか「Free Culture」とかの著者レッシグたんのBlogでアジりまくりの面白い記事があったので、要約だけでも訳してのっけとこうかと思ってモタモタしてたら、今日、日本語版が出てた。早いですねー。遅いですねー。<ぼく
CNET Japan:Google訴えられる
気持ちはわかるが、Google Printに関しては誰がどう見てもGoogleに分があるのではないか。と思った。
GoodPic.com:37signals Jason Fried氏の公演 「より少ないシンプルな機能で競争する」(via:Fladdict)
耳が痛い話ばかりです。
Ta-da Listを試しに使ってみたんですけど、かなりいけてるじゃないですか。これですよ、こういうの。
あとで、じっくり読むので、メモっときます。
やはり、直接ソース見れちゃうというのが大きいですよね。
Ajax使って、、というのはあっという間に当たり前になるだろうし、それ以前に何をするかが重要なのは当然だろうけど。
Google MapsってAjax使ってるからすごいんじゃなくて、便利で誰もやってなかったからすごいわけですし。やっぱそれを忘れちゃいかんですよね。自戒も込めて。
サーバーの向こう側とかその先でお金をかけれる人たち(天気予報なんて一から始めたら莫大なお金がかかるし)、お金をかけてwebサービスのプラットフォームをどーんどーんと矢継ぎ早に作ってユーザーを囲い込める人たち、などなど、が勝者になるなんてシナリオだとなんかつまらんですよね。せっかくテクノロジーは手軽なのだから。
※What Is Web 2.0 を読んでみたけど、細かい技術的な事は後から考えようよ、とか思ってしまいました。技術者には当分なれそうにありませんです。ていうかどこのサイトの誰の記事読んでるつもりだよ<おれ。
業務用メモ。via:デザインパターン・メーリングリスト今日は眠いのでコメントなしです。
Web 2.0 Design Patterns(oreillynet.com)
デザインパターンMLに結城浩さんが投稿されてて興味を持ったのですが、昨日は睡眠欲に勝てず読めずじまいだったです。が、さっき読んでみたら、おもしろかったので翻訳してみました。
この「訳」の著作権は破棄しますので、商用非商用自由ですが、勝手翻訳で承諾を受けているわけではないのでその辺は承知おきください。じゃあ何で公開したのかというと、文中に「知的財産の保護は再利用を制限し、実験を妨げる。」とうたってたからです。図々しいですね。はい。あと、訳に間違いがあるかもしれないので、指摘していただけると嬉しいです。
よくまとまっているので、取引先に魔法の呪文で呪術をかけられそうな僕のような会社員の皆様が「なあんだ、そういうことだったのか。」となる助けになればと。デザインパターン自体トレードオフの関係は避けられないと、ちょっとかじって感じたので、Web2.0のデザインパターンだってそれは避けられないはず、ですよね。
原文:What is Web 2.0 7. Rich User Experiences の右カラム
※括弧内の単語の追加、太字化は佐藤魚が読みやすくするためにつけました。
クリストファー・アレグザンダーは「A Pattern Language」のなかで、(デザインパターンを)建築における問題に対するソリューションを共有認識の、あるフォーマットとして書いている。「それぞれのパターンはわれわれの環境下で何度も何度もおこった問題であり、その問題の核となるソリューションを書いている。そういったわけで、このソリューションはかつて二度も同じことを繰り返したようなことなく、100万回以上も使えるものだろう。」と彼は書いている。
(※)商材と販売量の棒グラフをみると恐竜みたいに見えるが、その「しっぽ」の部分のほうが在庫コストがゼロに近いインターネットの世界では「あたま」より儲かるという話。しかも、もともと競争が少ないので利幅も大きい。小さなビジネスでもしっぽを長くすればそれなりに儲かりますねということ。
というわけで、とりあえず押さえておきましょう。
というわけで、Web 2.0 Design Patternsの訳の続きで、今度はWeb 2.0の批判として書かれたNicholas Carrの文章を訳してみました。
Nicholas Carrは、一応ふれておくと、「IT Doesn't Matter(ITにお金を使うのは、もうおやめなさい)」という本をハーバード・ビジネススクールから出版して、MSのスティーブ・バルマーを激怒させたといわれる人らしいです。
批判の論点は以下のように展開されています。長い文章なので続きを読まず、ここだけ押さえておいてもよいと思います。
個人的には消費者だろうが誰だろうが、誰かが労働に対する費用を負担しないことには、正しい批判が働かないばかりか、何か事業を展開しようとする際に資金繰りができないから頓挫しちゃってイノベーションがいっこうに進まないというのは十分妥当なストーリーだとは思います。既存の市場になんらかの規制をしいて保護しようと言うことには今更ならないだろうとも(希望としては)思うけど。
日本の現状だと(狭い認識の範囲ですみませんが)精神論とか理想論をすっとばして技術論とかビジネス論が突っ走ってる感じがしなくもないので、ここまで深い視点もあるんだなあと参考になれば。
例によって「訳」の著作権は破棄しますが、これ、勝手翻訳ですのでそのあたりは、承知おきください。訳の精度も保証できるものではありません。また、場合によっては突然削除することもあり得ます。
翻訳ってただ読むより、(ひょっとすると日本語で読むより)勉強になるので、そのお裾分け程度と思って頂けると幸いです。
(The amorality of Web 2.0 in Rough Type by Nicholas G. Carrの訳)
(追記:2010/5/5:とある方から訳文に対して指摘を受けたのをいくつか反映させました。)まずはじめに、World Wide Webは半宗教的な切望を受け入れる容器であった。でなかろうか?物理的世界を超越しようとする者にとって(※1)、Webはレディメイドな約束された土地なのだ。インターネット上では、私たちはみんなシンボルがシンボルの中のシンボルに話しているように、身体が無い。早い時期のWebの形而上学についての文章は、多くは60年代以降のニュー・エイジ・ムーブメントに影響を受け、また関係した思想家によって書かれたものだったが、差し迫った魂の解放の感覚に富み、サイバーワールドを通過することを、個人の、そして共同体の束縛を解放するものとし、知性や、共同体や、そしてこの貧弱な肉体における、古くさいしがらみから解放する旅としている。(※2)私たちはもっと開けた、ほとんど天使の王国にいるみたいに自由に浮遊するネチズンになるのだと。
しかし、1990年代後半にWebが成熟するにつれて、デジタルに覚醒するという夢は(※3)、実現されないものとなった。Netは思想というより商売に、共同体というより商店街に転じた。そして、新世紀になると、ニューエージではなく、下世話な欲望のバブルがポンポンはじける、がっかりするほどありふれた世界がやってきたのだ。(※4)そんな中で、両替屋が寺院で幅をきかせるようになる。インターネットは多くのものを変化させたが、結局我々は何も変わらなかったのだ。
しかし、高い意識へのあこがれはバブルとともに弾ける事は無かった。(※5)たしかに、Web 1.0はスピリチュアルなベイパーウェア(直訳すると「水蒸気[かすみ](vapor)のソフトウェア」:いつリリースされるともわからないソフトウェアということらしい)に転じたのかもしれない。しかし今、我々は大騒ぎの的になっている(※5)アップグレード(Web 2.0)を得たのだ。最新号のWiredの記事でインターネット知識人、ティム・オライリーの紹介で、スティーブン・レビーが「集合知という考えはインターネットのマニフェストになりつつある」書いている。彼はオライリーの言葉を引用して「今日のインターネットは私たちが70年代に[ニューエイジ本部の]エサレンで語ってきたことの反響だ--テクノロジーによってもたらされるとは思っていなかったがね」 (※7)レビーはそれに続けて問う「インターネット - あるいはオライリーがWeb2.0と呼ぶもの - は本当に人類の潜在能力のムーブメントを承継するものなのだろうか?」(※8)
レビーの記事はケビン・ケリーが吠えているWiredの8月の記事「我々がWebだ」の余波の中で掲載された。(※9)かつて「ロングブーム」(注:Peter Schwartz著:一連のIT革命によってかつて無い長期的な好況が続くといった内容の本。またその本に書かれた長い好景気のこと。)の預言者であったケリーは、10年前にネッストケープが新規株式を公開して以来のWorld Wide Webの発展を概説し、この世界に存在するものごとについて「不気味なほど神に近づいた」視野を与えてくれる「魔法の窓」となったと結論付ける。(※10)「天使でもこれほど人類を見渡せるとは思えない」と彼は記している。(※11)
しかし、それはまだ序の口にすぎない。ケリーによれば、将来的にはWebは神の視野だけでなく、そのパワーを授けるだろうとのことだ。(※12)WebはインターネットにフィットするメガコンピュータのOSになりつつあり、そのすべてのサービス、周辺機器たるチップ全て、繋ぎあわされたスキャナーから人工衛星に至るまでのあらゆるデバイス、そしてこのグローバルネットワークに巻き込まれた何十億もの人間の意識を包み込むものになるだろう。(※13)巨大なマシーンはプリミティブな形ですでに存在しているのだ。この10年で、それは、私たちの感覚と身体だけでなく、私たちの精神も統合的に拡張するものに進化するだろう。・・・・私たちはこのようなものの中で生きることになるのだ。(※14)
惑星の歴史においてその住人が大きなマシーンの数えられない部分の一つとしてつなぎ合わされる時が一度はある。後にそのマシーンはさらに早く動作するがその時というのは一度だけということは変わらない。あなたと私はその瞬間に生きている。
驚くべきことだが普通人々はその様な時間に生きることは無い。短い世紀ごとに着実な断続的に変化する進歩と歴史はその瞬間に左右される。私たちはそれらの重要な時代を振り返り、そして、その時代を生きることはどんなことだろうと考える。孔子、ゾロアスター、仏陀、そして後のユダヤ教徒は同じような宗教の時代の曲がり角として知られる時代に生きた。似たように、アメリカ的革命に集中している偉大な個人と、17世紀における現代科学の発達のさなかに混ざり合う天才たちは、私たちの短い文明化の歴史に軸となる局面をあらたに築くのだ。
今から三千年後に、鋭敏な知性が私たちの過去を振り返るとき、私は私たち古代の時代、三番目のミレニアムのはじまりをそういった時代の一つと見なすだろうことを信じる。ネットスケープの新規株式公開と大まかに一致するその時代において、人類はほんのわずかな知性とともに、生きていないモノに息吹を吹き込み、グローバルなフィールドの中でそれらをつなぎ合わせ、そして、一つのモノの中に私たちの精神をつなぐのだ。これは、地球上において、最も巨大で、もっとも複雑で、そして最も驚くべき出来事なのだ。ガラスと電波の外にある神経を織り込み、私たちの種は、すべての宗教、すべてのプロセス、すべての事実と概念は巨大なネットワークにまとめあげられはじめる。この初期段階から神経ネットは私たちの文明化、それまでにある全ての発明を越える検出・認識装置のための生まれながらの協業的なインタフェースなのだ。大文字のマシーンは新しい考え方(完璧な検索、完全記憶能力)と古い種に新しい精神を提供した。それは始まったのだ。
これはなにかの説明ではない。ただの逝っちゃっている文章だ。
さて、あなたたちが私のことを単なる皮肉屋と片付けるといけないし、まあ堕天使じゃないとして、私自身超越的なものには、教会に通っていようが、森の中の小屋に住んでいようが、マハリシ/宗教的賢者の足もとに座っていようが、ピカピカピクセルが光る液晶画面をただ見つめていようが、賛成だということをはっきりさておきたい。ある人が誰かが見つけた神の恵みを集める。そして、もしそこに崇高な意識が認められるとしたら、あらゆる手段によって、高められるべきだろう。問題は:宗教的な言葉づかいでWebを見るとき、また、超越的なものを切望すると同時にその思いを寄せるとき、私たちはそれを客観的にみることは出来ないということだ。必然的に、私たちはインターネットを道徳の力として見なすことになり、単純な無機物なハードウェアとソフトウェアの集まりと見ることが出来ないのだ。まともな人は道徳と無関係な塊であるテクノロジーを崇めたいと思わないだろう。
そして、Web 2.0が思い描く全てのことがら、参加、集合主義、仮想コミュニティ、アマチュア主義は議論の余地無く良い事柄になってしまい、促進され、賞賛され、より進んだ状態へ向かう進歩の象徴になるのだ。しかし本当にそうだろうか?そこに反論の余地はないのだろうか?たぶん、ひょっとしたら、社会と文化におけるWeb 2.0の実際的な効果は悪い、もしくは良くないものなのかもしれない。モラルの力としてWeb 2.0を見る事はそのような問題に耳をふさぐ事になるのだ。
要点をかいつまんで言おう。もし、あなたがWeb 2.0に対して準備ができているとするなら、あなたは、「参加の時代」の輝かしいマニフェストとしてのWikipediaにてんこ盛りの賞賛を贈らないわけにはいかないだろう。Wikipediaはオープンソースの百科事典であって、貢献したいと思った誰もが、エントリーを加えたり、すでにあるものを編集する事ができる。オライリーはWeb 2.0についての明快なエッセイで、Web 1.0モデルのBritannica Onlineの先にある躍進であるWikipediaを称して「コンテンツ制作のダイナミックスにおける完全な変化」としている。ケビン・ケリーにとって、Wikipediaは、Webがどのようにして私たち個人の知性を、偉大なる集合知性の中へため込むかを表したものであるとしている。大文字のマシーンの前兆なのだ。
理論的には、Wikipediaは美しいものだ。もしWebが私たちを高尚な意識に導くものなら美しいものでなければならない。しかしながら、現実には、Wikipediaはそんなにいいものでもない。確かに、役に立つものではある。わたしは、ある題目の注釈をちょっとみるのにはよく使う。しかし、実際のレベルにおいては不確かなものだ。そして、文章はぞっとするものですらある。一つのソースとして頼ることはできないだろう。また、確実に学生の論文やリサーチペーパーへ勧めたりはしないだろう。
その実例として、Wikipediaからビル・ゲイツのセクションを一語一語引用してみよう:
ゲイツはミランダ・フレンチと1994年1月1日に結婚した。ジェニファー・キャサリン・ゲイツ(1996年4月26日生まれ)、ローリー・ジョン・ゲイツ(1999年5月23日生まれ)、フォエベ・アベル・ゲイツ(2002年9月14日生まれ)の3人の子供をもうけた。1994年、ゲイツは2003年までシアトル・アート・ミュージアムで展示されていたレオナルド・ダ・ビンチによる「レスター手稿」を取得する。
1997年、ゲイツはシカゴに住むアダム・クイン・プレッチャーによる突発的な強盗未遂の被害者になる。ゲイツは後の裁判で証言することになる。プレッチャーは1998年7月に有罪判決をうけ、懲役6年の刑を執行された。1998年2月にゲイツはノエル・ゴーディンにクリームパイをひっかけられ、2005年に彼は有名な弁護士のヘッシュマン・フォーダに相談する。
フォーブズ誌によると、ゲイツはジョージ・W・ブッシュの2004年の大統領キャンペーンへ献金をした。Center for Responsive Politics誌によると、ゲイツは前述の献金で、2004年の選挙のあいだ少なくとも33,335ドル、50以上の政治的キャンペーンに献金した。
いかにもなのを持って来たのを許してほしいが、これは単なるカスだ。支離滅裂で根も葉もないものを寄せ集めたうさんくさい話のツギハギだ。(有名な弁護士のヘッシュマン・フォーダって誰だっての。)
また、Wikipediaのジェーン・フォンダの人生を一語一語引用してみよう:
若い頃の彼女のあだ名である、レディ・ジェーンは嫌われ者だったということだ。1964年に彼女は共産主義のロシアを旅して回り、ヘンリーの娘として温かく歓迎した人々に感動した。1960年代の中頃、パリの郊外の工場を買い取り、改装して個人のガーデンをオープンした。彼女はアンディ・ウォーホルのファクトリーを1966年に訪れている。1971年のオスカーを受賞について、彼女の父であるヘンリーに「おれがまだその仕事をしてて、受賞する前に手前の娘が受賞するなんざあどういうこった?」と言わしめた。ジェーンは1968年5月29日にライフ誌の表紙になる。子供の頃、彼女の父の非難と疎外感とともに育った彼女は、1980年に、かれのキャリアの中でどうしても穫る事の出来なかったオスカーを穫りたいと願う、父親のそばで演技をするために「黄昏」の脚本を買う。そして、彼は受賞する。彼へのオスカー受賞を聞いたとき、彼女は「人生で最高の夜」と言った。
監督で最初の夫であるロジャー・ベイディムはかつて彼女ついてこう言った。「ジェーンと一緒に生きるのははじめから難しかった。彼女はたくさんの、なんというか、[独身癖]があった。多くの団体に属していた。時間は常に彼女の敵だった。リラックスも出来ず、何かしてないと落ち着かない。」ベイディムはまたこうも言っている。「ジェーンには限界までなにかを背負い込む癖もあった。」
これは、本当にひどい。そして、残念ながらお粗末なWikipediaの品質を明らかにしている。覚えておいてほしいのは、この集合知の流出が数ヶ月前に出て来たものでないという事だ。5年以上もの間、何千もの「勤勉な」貢献者によってなされた仕事なのだ。この点において、「集合知」における知性がいったい、いつマニフェストそのものになるのか問うのは正当なことと思われる。いつになったら、偉大なWikipediaが良くなるのか?それとも、「良き」昔気質なコンセプトはオンライン百科事典みたいな差し迫った現象には当てはまらないのか?
Web 2.0の支持者は、アマチュアを崇めまつり、プロフェッショナルを信じない。そこには、Wikipediaへの純粋な賞賛があり、そして、オープンソースと無数の民主主義による創造性の例への崇拝を見る事ができる。おそらく、彼らのアマチュアリズムへの愛は、彼らが呼ぶ「メインストリーム・メディア」の代わりとしての、ブログのプロモーション同様、自明すぎることなのだ。オライリーはこうも言ってる:「メインストリーム・メディアが個人のブログを競争相手とみているなら、彼らを本当に狼狽させるものは、その競争自体が、全体のブロゴスフェアの中に取り込まれている事にある。これはサイト同士のたんなる競争ではなく、ビジネスモデル同士の競争なのだ。Web 2.0の世界はダン・ギルモアがよぶ「バックルームの人々」でなく、何が重要かを決める、「かつてのオーディエンス」からなる「私たちがメディア」の世界でもある。」
ブログとブロギングについてはまったく賛成である。(結局私も書いているわけだし、ね?)しかし、私はブロゴスフェアの限界と欠陥について盲目ではない。-表面的で、誇張された意見として強調され、他人の言葉をそのまま繰り返し、イデオロギー的な過激主義に挑戦する事が無いばかりか、むしろ拍車をかける方向にあり、差別的ですらある。いま、どれも同じような批判がメインストリーム・メディアの断片に放り出されている。それにもかかわらず、最高の状態で、そのメインストリーム・メディアはブロガーと違ったやり方で、そして、そう、ブロガーよりもっと重要なやり方で物事を行う事ができる。これら、侮蔑された「バックルームの人々」は掘り下げたレポートとリサーチに資金をつぎ込む事ができる。彼らは、成果物に達するまでに、何ヶ月も何年もかかる、プロジェクトに対してサインする事が出来る。たとえ、それが失敗に終わるとしてもだ。かれらは、インターネット上の個人事業者など到底及ばないであろう才能のある人物を雇う事が出来る。彼らは、エディターや、校正者や、その他、表に出てこない、品質を担保する人々を雇う事が出来る。彼らは、同じページに同じウェイトをもたせて、異なるイデオロギーを掲載する事も出来る。ブログを読むか、New York Timesや、Financial Timesや、Atlanticや、Economistを購読するかどちらかを選べと言われたら、私は後者をとるだろう。私は、アマチュアの上にたつプロフェッショナルをとる。
しかし、この選択を強制したいとは思わないが。
というわけで、長きにわたって書き続けた事で、わたしはついに結論に達した。インターネットはクリエイティブワークの経済を変え続けている。もしくは、より広いもの、文化の経済、に押し進めている。そして、私たちの選択を広げるものというよりは、逆に狭めるものなのかもしれない。Wikipediaは、ブリタニカの出来の悪い影なのかもしれないが、プロフェッショナルでなく、アマチュアによって作られたものなので、それは只だ。そして、只なのが、いつでもそのクオリティなのだ。そして、生活のために百科事典を書いていたかわいそうなマヌケに何がおこったか。彼らはしなびて死んだのだ。ブログやほかのフリーのオンラインコンテンツが昔気質の新聞紙や雑誌に対抗する事が同じような事として起っている。もちろん、メインストリーム・メディアはブロゴスフェアを競争相手としてみなしている。競争相手だ。そして、競争の経済のもとでは、それは、優位な競争相手になるという結果をまねくかもしれない。私たちが最近見たメジャーな新聞紙の一時解雇は、ただの始まりかもしれない。そして、その一時解雇は喜ばしい事ではなく、絶望を引き起こすものだ。有頂天のWeb 2.0のビジョンに隠されているものは、アマチュアの支配なのだ。私はこれより恐ろしいものは想像できないと考えるものの一人だ。
「我々がWebだ」のなかで、ケリーが書いている。「クリエイションと配布が簡単なので、オンラインカルチャーはカルチャーなのだ。」私は彼が間違っている事を願うが、彼が正しい事を恐れもしている。あるいは、彼の言う事が正しくなる事を。
好むと好まざるとに関わらず、Web 2.0は、Web 1.0のように、道徳とは無関係なのだ。それは、ひとセットのテクノロジーであって、生産と消費の経済の形を変えるマシーンであり、大文字のマシーンではないのだ。結果が悪かろうと良かろうと関係ない。それが、私たちを高い意識に導こうが、低いところだろうが関係ない。私たちの文化を消し去ろうが、引っ張ろうが関係ない。私たちを黄金時代に導こうがダークエイジに導こうが関係ない。だから、ミレニアリストのレトリックで。そして、私たちが望むようにでなく、あるがままの事柄を見ようではないか。
追記 2005/12/14(重要)
タイトルの「Web2.0の不道徳」は不適切との指摘を受けました。すでに方々からリンクを張られていたため、コメント欄に誤りを付記するにとどめ、変更を躊躇していたのですが、やはり誤訳は誤訳なので訂正する事にします。躊躇しても事態はよけい悪くなるだけでした。反省。それに合わせて本文の言い回しも多少いじりました。
※山形さんから邦訳の案をいただきました。ありがとうございます。
追記 2010/5/5
とある読者の方から翻訳案についての指摘を頂きました。以下の部分に付いて反映させました。とある方、ありがとうございました!
先の「The amorality of Web 2.0」のカウンターがでてた。
There is no cult of the amateur, Mr Carr :Read/WriteWeb by Richard MacManus
via:Zopeジャンキー
このまえ、Web 2.0 for Designersを投稿していたひとですね。
おもしろそうなので、後で読みます。
There is no cult of the amateur, Mr Carr :Read/WriteWeb by Richard MacManusの論点をまとめました。今回は全訳はなしです。
僕自身がこれらの論争で思ったこと。
コンテンツの品質が低くてても必要であれば必要な分だけ、必要な人が直せばいいのではと思います。それは、ある意味コンテンツの優先度をランクづける働きにもなるのではと。僕自身ジェーン・フォンダの一生なんて考えたこともなかったですし。
「目利き」についても、プロの仕事だからって絶対品質を「担保」されているとはいえないですよね。提供側も受け取る側もリスクの度合いは全然違うのかもしれないですけど。
あと、「タダ」が唯一の価値というのはやっぱり疑問です。結局マネタイズの方法はこれから変わっていくだろう環境の中で、どちらのサイドでも考えなきゃなあと言うのは同感です。難しいですが。
オープンソースコミュニティが貢献者にあたえる尊敬みたいなお金じゃない価値にも限度があるかなあと思いました。(これは、ちょっと言い切る自信ないですけど。)オープンソースはれっきとしたビジネスと聞いてますが。
ここまで書いてふと思ったのですが、これらって全然新しくないですよね。どれも当たり前な気がしました。
いかにもな命名で、にやりって感じです。
flock [flα'k]【名】 群れ、一団{いちだん}、群衆{ぐんしゅう}、信徒{しんと}、会衆{かいしゅう}
せっかくだから、Flockから、投稿してみようと思ったのですがうまくいきませんでした。MTのバージョンの問題なのでしょうか。。。
del.icio.us連携とか、検索周りがSpotlightっぽい動きするところか、UIのスキンもそうだけど、かなりおしゃれな仕上がりになってる。Firefoxの拡張機能そのまま使えるなら、乗り換えちゃってもいいかも。(普段使いはOSX版FireFox。)
関係ないですが、Flockのホームページって新しいWeb Designだなと思いました。紙メタファーじゃなくてアプリケーションのUIとの親和性がよさげなデザインという意味で。
フォントはWeb 2.0メソッドのArialじゃなくてHelvetica Neue(ギャルソンとか無印のあれ)みたいですが。
Web 2.0とポストモダンのキーワードを比較してみるテスト。
Web 2.0 | ポストモダン |
ロングテール The Long Tail | 大きな物語の終焉 The end of Grand Narratives |
データこそ次世代の「インテル・インサイド」 Data is the Next Intel Inside | 引用 Quotation |
ユーザーが価値を付加する Users Add Value | 脱構築 Deconstruction |
ネットワーク効果はデフォルトで Network Effects by Default | 脱中心化 Decentralization |
一部権利保有 Some Rights Reserved. | 剽窃 Plagiarism |
永久にベータ版 The Perpetual Beta | 製品から情報化へ Products to Information |
コントロールでなく協力 Cooperate, Don't Control | 分権 Decentralization |
単一デバイスのレベルを超えたソフトウェア Software Above the Level of a Single Device | 表層 Surface Layer |
やたらめったらゴシック体 Gothic fonts anywhere | バーバラ・クルーガー Barbara Kruger |
うわー。
orz
※誰かやるだろうと思ってましたが、やっちまいました。
Web 2.0っぽい会社名とサービスを自動生成するWebアプリ。
Web Two Point Oh!
最初見たときシニカルだなあと思いましたが、昔うけた研修でビジネスモデルのアイディアを一日一個必ず出すために単語帳に固有名詞を書き、そこからランダムに二つ引っ張ってきてその単語からアイディアをつくると言う事をしていた人がいたそうです。(すみません誰かは忘れました。)
と、考えるとあながちシニカルでもないのかも。名前生成はともかくとして。
CNET JAPANでしばらく前にWhat is web 2.0の翻訳が公開されていました。
もちろん、後編の方には僕が以前翻訳した、Web 2.0のデザインパターンの翻訳も含まれています。
http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000054679,20090424-4,00.htm
やはり、プロフェッショナルの仕事ということで、とても読みやすいです。というか、よく編集されていて、なるほど、こういう日本語に訳すのかと勉強になりました。やはりプロの仕事はすばらしいです。英語力も日本語力も遠く及ばないです。
ということで、僕の翻訳の方はすでに役目が終わった感じなので削除しようと思いました。ですが、少し考えて、やはり残しておく事にしました。
僕の方が10/07に(デザパタMLで結城さんが投稿した次の日に)公開したのに対して、こちらは11/09。単純な日時の比較で1ヶ月くらいのスパンがあります。よって僕の方が偉い!というつもりはさらさら無いのですが、プロの仕事とアマの仕事の性質の違いの良いサンプルになるのではないかなと思ったのがその理由です。だから、あえてクオリティの低いと思われる箇所も修正せずに晒しておくことにします。
テクノロジーがプロフェッショナルを脅かしたり、アマチュアを駆逐するようにはなって欲しくないですよね。むしろ、アマチュアの力をエンハンスしたり、プロフェッショナルがアマチュアの仕事を利用できて、空いた時間にそのプロフェッショナルが違う分野でテクノロジーを利用してアマチュアの仕事をして、、、といった連鎖になったらいいなあと。
ただのユートピア思想の甘ちゃんだと思われるかもしれない。けど、夢や希望の無いテクノロジーになんの意味があるのか僕には分かりません。
「夢や希望」が単一じゃないにしても、世界を変えるのはそういったテクノロジーなのだと思います。
ちょっと前にNingというサービスが界隈で話題になってて、周回遅れでBeta Developerアカウントを申請してみました。
Ningをぱっと見て思い出したのは、掲示板ホスティングサービスです。インターネットに掲示板が現れたときはそれなりにインパクトがあったと思うのですが、2005年の今じゃありふれた仕組みの一つだと思います。
それと一緒で、猛烈な早さでソーシャルなんとかサービスもありふれた仕組みになりつつあるんだなあと。
プラス、del.icio.usのクローンも、Flickrのクローンも、snsもオープンソース化されつつあったりして、それこそ僕みたいなデザイナーでも参入障壁は限りなく下がりつつある。
そのうち「サクサク作成君」(@niftyが提供していた簡単にホームページが作れるサービスです。)みたく、「サクサク・ソーシャルサービス作成君」みたいなのが現れるのも時間の問題かと。
掲示板の仕組み自体が陳腐になっても未だに某匿名掲示板を見てる人が多いみたいに、参入障壁が下がった世界では結局の所ブランドが物を言うのだと思います。
技術的なことをキャッチアップするのはそれなりに楽しい事なのだけど、知らず知らず楽しくやっている先にあるのがブランド至上主義の強化なのかあと思うと、なんだかなあと思ってしまいます。
それに打ち勝つにはイノベーションを続けるしか無いのか。楽しさは止まらないのだし。
受けた。
del.icio.usが復活しない。長い。
http://blog.del.icio.us/blog/2005/12/continued_hiccu.html
やはりメインは、はてなアンテナにするか。しかしなぁ。。。
(追記:アンテナじゃなくてブックマークでした。)
それはそうと、昨日の「しかしなぁ」はfladdict.netさんの以下のエントリみたいなのを思ってたんだけど、うまく言葉にできなかったです。たしかに実感としてそういうのはありますね。
はてなブを見るときは、ヒットラーの言葉を思い出そう:fladdict.net/blog
「知的水準の最低レベルにヒット」というのは留保が必要かなと思いますけど、ソーシャルブックマーク以降は情報享受のスピードと比例して忘却力も大きくなったなと思います。「仕入れる、忘れる」のサイクルが早まるにつれて感情的にならないようにというのは大事ですね。大切なのは忘却力じゃなくて老人力ですよ。(笑
del.icio.usもプログラムの仕組み自体は大差ないのに、コミュニティ自体がドライな印象を受けるのはなぜなんだろう。罵倒とかなくは無いから、ぼくに第二外国語のフィルタがかかってるだけだからなのだろうか。地域性からくるのだろうか。デザインがグレー主体のミニマルだから?(んなわけないか。でもそうだったら面白い。)
ライブドア事件特集ブログ:山形 浩生さんより - livedoor Blog(ブログ)
【山形浩生】ライブドアの何がいけなかったの? トレンド-オピニオン:IT-PLUS
山形さんのことだから、「ウンコなビジネスのウンコな議論ですな。」くらいのこと書くのかなあと思ったら、意外に普通。ま、強引に要約するとそういうことなのだろうけど。
株式で損した人は無知だったとはいえ本当に気の毒だと思う。やっぱりバカだからではすまされないですよ。あと、糾弾されるべきはライブドアより消費者金融の宣伝ばりに株式で簡単に儲けられるとマーケティングしてた会社や人なのでは。んなわけないだろうとつっこむアナウンスもあんまり聞かなかった気がするし。
なので山形さんには是非とも、「血も涙も無いファイナンス入門」を完成させて欲しいです。今こそその次期なのでは!こんな事言ったら、自分で勉強しろよと罵倒されそうですが。この一件で株式に俄然興味でてきたので是非読みたいです。
さっきウンコなビジネスとか書いちゃいましたけど、事件前からライブドアのスタッフってむちゃくちゃ優秀だなあと常に思ってました。テクニカルな部分では。
いつになく炎上していた「ライブドアの技術の話」でもふれられている通り、サーバー保守の件もそうだけど、サービスのプロモーション手法でも、デザインでも、開発スピードでも。いつも歯ぎしりしてます。事件後の広報対応ですら冷静で、すげーライブドア!と対岸で眺めてました。逮捕当時のlivedoorニュースなんて見てる方がヒヤヒヤしましたよ。
モノマネサービスが各所でやり玉にあがってるけど、(個人的にはぼくらのサービスもパクられたたちだからアレだけど。ま、腹が立ったというより面白かった。)彼らの良い部分のノウハウを今度は僕らがモノマネする番なのでは。そういう意味でも、まずかった点も含めてあらゆる事がオープンになってほしいです。無理かな。
「ライブドアの技術の話」で煽ってる人たちは、ライブドアの技術有る無しはとりあえず置いといて、この状況で、いったい彼らは何を行っていたのか?というような、好奇心が働いてもよかったのでは。推測の域をでないとしても。それがプロというものでしょう。ぼくはサーバー管理についてはド素人なんで何とも言えないけど。
そういう意味でnaoyaは全うなプロフェッショナルだなあと思いました。
ブログ「minfish.jp/blog」のカテゴリ「Internet」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。
前のカテゴリはFlashです。
次のカテゴリはJavaScriptです。