というわけで、Web 2.0 Design Patternsの訳の続きで、今度はWeb 2.0の批判として書かれたNicholas Carrの文章を訳してみました。
Nicholas Carrは、一応ふれておくと、「IT Doesn't Matter(ITにお金を使うのは、もうおやめなさい)」という本をハーバード・ビジネススクールから出版して、MSのスティーブ・バルマーを激怒させたといわれる人らしいです。
批判の論点は以下のように展開されています。長い文章なので続きを読まず、ここだけ押さえておいてもよいと思います。
- Webにおいてニューエイジ的なユートピア論は正しい判断を誤らせる
- ユートピア論からくるアマチュア主義は時としてひどいクオリティの仕事しかしない
- アマチュア主義は結局タダなので、プロフェッショナルが培ってきた市場をおびやかす
- プロフェッショナルを市場から駆逐することは世の中全体の損失である
個人的には消費者だろうが誰だろうが、誰かが労働に対する費用を負担しないことには、正しい批判が働かないばかりか、何か事業を展開しようとする際に資金繰りができないから頓挫しちゃってイノベーションがいっこうに進まないというのは十分妥当なストーリーだとは思います。既存の市場になんらかの規制をしいて保護しようと言うことには今更ならないだろうとも(希望としては)思うけど。
日本の現状だと(狭い認識の範囲ですみませんが)精神論とか理想論をすっとばして技術論とかビジネス論が突っ走ってる感じがしなくもないので、ここまで深い視点もあるんだなあと参考になれば。
例によって「訳」の著作権は破棄しますが、これ、勝手翻訳ですのでそのあたりは、承知おきください。訳の精度も保証できるものではありません。また、場合によっては突然削除することもあり得ます。
翻訳ってただ読むより、(ひょっとすると日本語で読むより)勉強になるので、そのお裾分け程度と思って頂けると幸いです。
Web2.0に道徳を持ち込むな
2005年10月3日(The amorality of Web 2.0 in Rough Type by Nicholas G. Carrの訳)
(追記:2010/5/5:とある方から訳文に対して指摘を受けたのをいくつか反映させました。)まずはじめに、World Wide Webは半宗教的な切望を受け入れる容器であった。でなかろうか?物理的世界を超越しようとする者にとって(※1)、Webはレディメイドな約束された土地なのだ。インターネット上では、私たちはみんなシンボルがシンボルの中のシンボルに話しているように、身体が無い。早い時期のWebの形而上学についての文章は、多くは60年代以降のニュー・エイジ・ムーブメントに影響を受け、また関係した思想家によって書かれたものだったが、差し迫った魂の解放の感覚に富み、サイバーワールドを通過することを、個人の、そして共同体の束縛を解放するものとし、知性や、共同体や、そしてこの貧弱な肉体における、古くさいしがらみから解放する旅としている。(※2)私たちはもっと開けた、ほとんど天使の王国にいるみたいに自由に浮遊するネチズンになるのだと。
しかし、1990年代後半にWebが成熟するにつれて、デジタルに覚醒するという夢は(※3)、実現されないものとなった。Netは思想というより商売に、共同体というより商店街に転じた。そして、新世紀になると、ニューエージではなく、下世話な欲望のバブルがポンポンはじける、がっかりするほどありふれた世界がやってきたのだ。(※4)そんな中で、両替屋が寺院で幅をきかせるようになる。インターネットは多くのものを変化させたが、結局我々は何も変わらなかったのだ。
新しいニューエイジ
しかし、高い意識へのあこがれはバブルとともに弾ける事は無かった。(※5)たしかに、Web 1.0はスピリチュアルなベイパーウェア(直訳すると「水蒸気[かすみ](vapor)のソフトウェア」:いつリリースされるともわからないソフトウェアということらしい)に転じたのかもしれない。しかし今、我々は大騒ぎの的になっている(※5)アップグレード(Web 2.0)を得たのだ。最新号のWiredの記事でインターネット知識人、ティム・オライリーの紹介で、スティーブン・レビーが「集合知という考えはインターネットのマニフェストになりつつある」書いている。彼はオライリーの言葉を引用して「今日のインターネットは私たちが70年代に[ニューエイジ本部の]エサレンで語ってきたことの反響だ--テクノロジーによってもたらされるとは思っていなかったがね」 (※7)レビーはそれに続けて問う「インターネット - あるいはオライリーがWeb2.0と呼ぶもの - は本当に人類の潜在能力のムーブメントを承継するものなのだろうか?」(※8)
レビーの記事はケビン・ケリーが吠えているWiredの8月の記事「我々がWebだ」の余波の中で掲載された。(※9)かつて「ロングブーム」(注:Peter Schwartz著:一連のIT革命によってかつて無い長期的な好況が続くといった内容の本。またその本に書かれた長い好景気のこと。)の預言者であったケリーは、10年前にネッストケープが新規株式を公開して以来のWorld Wide Webの発展を概説し、この世界に存在するものごとについて「不気味なほど神に近づいた」視野を与えてくれる「魔法の窓」となったと結論付ける。(※10)「天使でもこれほど人類を見渡せるとは思えない」と彼は記している。(※11)
しかし、それはまだ序の口にすぎない。ケリーによれば、将来的にはWebは神の視野だけでなく、そのパワーを授けるだろうとのことだ。(※12)WebはインターネットにフィットするメガコンピュータのOSになりつつあり、そのすべてのサービス、周辺機器たるチップ全て、繋ぎあわされたスキャナーから人工衛星に至るまでのあらゆるデバイス、そしてこのグローバルネットワークに巻き込まれた何十億もの人間の意識を包み込むものになるだろう。(※13)巨大なマシーンはプリミティブな形ですでに存在しているのだ。この10年で、それは、私たちの感覚と身体だけでなく、私たちの精神も統合的に拡張するものに進化するだろう。・・・・私たちはこのようなものの中で生きることになるのだ。(※14)
革命はつづく:
惑星の歴史においてその住人が大きなマシーンの数えられない部分の一つとしてつなぎ合わされる時が一度はある。後にそのマシーンはさらに早く動作するがその時というのは一度だけということは変わらない。あなたと私はその瞬間に生きている。
驚くべきことだが普通人々はその様な時間に生きることは無い。短い世紀ごとに着実な断続的に変化する進歩と歴史はその瞬間に左右される。私たちはそれらの重要な時代を振り返り、そして、その時代を生きることはどんなことだろうと考える。孔子、ゾロアスター、仏陀、そして後のユダヤ教徒は同じような宗教の時代の曲がり角として知られる時代に生きた。似たように、アメリカ的革命に集中している偉大な個人と、17世紀における現代科学の発達のさなかに混ざり合う天才たちは、私たちの短い文明化の歴史に軸となる局面をあらたに築くのだ。
今から三千年後に、鋭敏な知性が私たちの過去を振り返るとき、私は私たち古代の時代、三番目のミレニアムのはじまりをそういった時代の一つと見なすだろうことを信じる。ネットスケープの新規株式公開と大まかに一致するその時代において、人類はほんのわずかな知性とともに、生きていないモノに息吹を吹き込み、グローバルなフィールドの中でそれらをつなぎ合わせ、そして、一つのモノの中に私たちの精神をつなぐのだ。これは、地球上において、最も巨大で、もっとも複雑で、そして最も驚くべき出来事なのだ。ガラスと電波の外にある神経を織り込み、私たちの種は、すべての宗教、すべてのプロセス、すべての事実と概念は巨大なネットワークにまとめあげられはじめる。この初期段階から神経ネットは私たちの文明化、それまでにある全ての発明を越える検出・認識装置のための生まれながらの協業的なインタフェースなのだ。大文字のマシーンは新しい考え方(完璧な検索、完全記憶能力)と古い種に新しい精神を提供した。それは始まったのだ。
これはなにかの説明ではない。ただの逝っちゃっている文章だ。
素人のカルト
さて、あなたたちが私のことを単なる皮肉屋と片付けるといけないし、まあ堕天使じゃないとして、私自身超越的なものには、教会に通っていようが、森の中の小屋に住んでいようが、マハリシ/宗教的賢者の足もとに座っていようが、ピカピカピクセルが光る液晶画面をただ見つめていようが、賛成だということをはっきりさておきたい。ある人が誰かが見つけた神の恵みを集める。そして、もしそこに崇高な意識が認められるとしたら、あらゆる手段によって、高められるべきだろう。問題は:宗教的な言葉づかいでWebを見るとき、また、超越的なものを切望すると同時にその思いを寄せるとき、私たちはそれを客観的にみることは出来ないということだ。必然的に、私たちはインターネットを道徳の力として見なすことになり、単純な無機物なハードウェアとソフトウェアの集まりと見ることが出来ないのだ。まともな人は道徳と無関係な塊であるテクノロジーを崇めたいと思わないだろう。
そして、Web 2.0が思い描く全てのことがら、参加、集合主義、仮想コミュニティ、アマチュア主義は議論の余地無く良い事柄になってしまい、促進され、賞賛され、より進んだ状態へ向かう進歩の象徴になるのだ。しかし本当にそうだろうか?そこに反論の余地はないのだろうか?たぶん、ひょっとしたら、社会と文化におけるWeb 2.0の実際的な効果は悪い、もしくは良くないものなのかもしれない。モラルの力としてWeb 2.0を見る事はそのような問題に耳をふさぐ事になるのだ。
要点をかいつまんで言おう。もし、あなたがWeb 2.0に対して準備ができているとするなら、あなたは、「参加の時代」の輝かしいマニフェストとしてのWikipediaにてんこ盛りの賞賛を贈らないわけにはいかないだろう。Wikipediaはオープンソースの百科事典であって、貢献したいと思った誰もが、エントリーを加えたり、すでにあるものを編集する事ができる。オライリーはWeb 2.0についての明快なエッセイで、Web 1.0モデルのBritannica Onlineの先にある躍進であるWikipediaを称して「コンテンツ制作のダイナミックスにおける完全な変化」としている。ケビン・ケリーにとって、Wikipediaは、Webがどのようにして私たち個人の知性を、偉大なる集合知性の中へため込むかを表したものであるとしている。大文字のマシーンの前兆なのだ。
理論的には、Wikipediaは美しいものだ。もしWebが私たちを高尚な意識に導くものなら美しいものでなければならない。しかしながら、現実には、Wikipediaはそんなにいいものでもない。確かに、役に立つものではある。わたしは、ある題目の注釈をちょっとみるのにはよく使う。しかし、実際のレベルにおいては不確かなものだ。そして、文章はぞっとするものですらある。一つのソースとして頼ることはできないだろう。また、確実に学生の論文やリサーチペーパーへ勧めたりはしないだろう。
その実例として、Wikipediaからビル・ゲイツのセクションを一語一語引用してみよう:
ゲイツはミランダ・フレンチと1994年1月1日に結婚した。ジェニファー・キャサリン・ゲイツ(1996年4月26日生まれ)、ローリー・ジョン・ゲイツ(1999年5月23日生まれ)、フォエベ・アベル・ゲイツ(2002年9月14日生まれ)の3人の子供をもうけた。1994年、ゲイツは2003年までシアトル・アート・ミュージアムで展示されていたレオナルド・ダ・ビンチによる「レスター手稿」を取得する。
1997年、ゲイツはシカゴに住むアダム・クイン・プレッチャーによる突発的な強盗未遂の被害者になる。ゲイツは後の裁判で証言することになる。プレッチャーは1998年7月に有罪判決をうけ、懲役6年の刑を執行された。1998年2月にゲイツはノエル・ゴーディンにクリームパイをひっかけられ、2005年に彼は有名な弁護士のヘッシュマン・フォーダに相談する。
フォーブズ誌によると、ゲイツはジョージ・W・ブッシュの2004年の大統領キャンペーンへ献金をした。Center for Responsive Politics誌によると、ゲイツは前述の献金で、2004年の選挙のあいだ少なくとも33,335ドル、50以上の政治的キャンペーンに献金した。
いかにもなのを持って来たのを許してほしいが、これは単なるカスだ。支離滅裂で根も葉もないものを寄せ集めたうさんくさい話のツギハギだ。(有名な弁護士のヘッシュマン・フォーダって誰だっての。)
また、Wikipediaのジェーン・フォンダの人生を一語一語引用してみよう:
若い頃の彼女のあだ名である、レディ・ジェーンは嫌われ者だったということだ。1964年に彼女は共産主義のロシアを旅して回り、ヘンリーの娘として温かく歓迎した人々に感動した。1960年代の中頃、パリの郊外の工場を買い取り、改装して個人のガーデンをオープンした。彼女はアンディ・ウォーホルのファクトリーを1966年に訪れている。1971年のオスカーを受賞について、彼女の父であるヘンリーに「おれがまだその仕事をしてて、受賞する前に手前の娘が受賞するなんざあどういうこった?」と言わしめた。ジェーンは1968年5月29日にライフ誌の表紙になる。子供の頃、彼女の父の非難と疎外感とともに育った彼女は、1980年に、かれのキャリアの中でどうしても穫る事の出来なかったオスカーを穫りたいと願う、父親のそばで演技をするために「黄昏」の脚本を買う。そして、彼は受賞する。彼へのオスカー受賞を聞いたとき、彼女は「人生で最高の夜」と言った。
監督で最初の夫であるロジャー・ベイディムはかつて彼女ついてこう言った。「ジェーンと一緒に生きるのははじめから難しかった。彼女はたくさんの、なんというか、[独身癖]があった。多くの団体に属していた。時間は常に彼女の敵だった。リラックスも出来ず、何かしてないと落ち着かない。」ベイディムはまたこうも言っている。「ジェーンには限界までなにかを背負い込む癖もあった。」
これは、本当にひどい。そして、残念ながらお粗末なWikipediaの品質を明らかにしている。覚えておいてほしいのは、この集合知の流出が数ヶ月前に出て来たものでないという事だ。5年以上もの間、何千もの「勤勉な」貢献者によってなされた仕事なのだ。この点において、「集合知」における知性がいったい、いつマニフェストそのものになるのか問うのは正当なことと思われる。いつになったら、偉大なWikipediaが良くなるのか?それとも、「良き」昔気質なコンセプトはオンライン百科事典みたいな差し迫った現象には当てはまらないのか?
Web 2.0の支持者は、アマチュアを崇めまつり、プロフェッショナルを信じない。そこには、Wikipediaへの純粋な賞賛があり、そして、オープンソースと無数の民主主義による創造性の例への崇拝を見る事ができる。おそらく、彼らのアマチュアリズムへの愛は、彼らが呼ぶ「メインストリーム・メディア」の代わりとしての、ブログのプロモーション同様、自明すぎることなのだ。オライリーはこうも言ってる:「メインストリーム・メディアが個人のブログを競争相手とみているなら、彼らを本当に狼狽させるものは、その競争自体が、全体のブロゴスフェアの中に取り込まれている事にある。これはサイト同士のたんなる競争ではなく、ビジネスモデル同士の競争なのだ。Web 2.0の世界はダン・ギルモアがよぶ「バックルームの人々」でなく、何が重要かを決める、「かつてのオーディエンス」からなる「私たちがメディア」の世界でもある。」
ブログとブロギングについてはまったく賛成である。(結局私も書いているわけだし、ね?)しかし、私はブロゴスフェアの限界と欠陥について盲目ではない。-表面的で、誇張された意見として強調され、他人の言葉をそのまま繰り返し、イデオロギー的な過激主義に挑戦する事が無いばかりか、むしろ拍車をかける方向にあり、差別的ですらある。いま、どれも同じような批判がメインストリーム・メディアの断片に放り出されている。それにもかかわらず、最高の状態で、そのメインストリーム・メディアはブロガーと違ったやり方で、そして、そう、ブロガーよりもっと重要なやり方で物事を行う事ができる。これら、侮蔑された「バックルームの人々」は掘り下げたレポートとリサーチに資金をつぎ込む事ができる。彼らは、成果物に達するまでに、何ヶ月も何年もかかる、プロジェクトに対してサインする事が出来る。たとえ、それが失敗に終わるとしてもだ。かれらは、インターネット上の個人事業者など到底及ばないであろう才能のある人物を雇う事が出来る。彼らは、エディターや、校正者や、その他、表に出てこない、品質を担保する人々を雇う事が出来る。彼らは、同じページに同じウェイトをもたせて、異なるイデオロギーを掲載する事も出来る。ブログを読むか、New York Timesや、Financial Timesや、Atlanticや、Economistを購読するかどちらかを選べと言われたら、私は後者をとるだろう。私は、アマチュアの上にたつプロフェッショナルをとる。
しかし、この選択を強制したいとは思わないが。
恐ろしい経済学
というわけで、長きにわたって書き続けた事で、わたしはついに結論に達した。インターネットはクリエイティブワークの経済を変え続けている。もしくは、より広いもの、文化の経済、に押し進めている。そして、私たちの選択を広げるものというよりは、逆に狭めるものなのかもしれない。Wikipediaは、ブリタニカの出来の悪い影なのかもしれないが、プロフェッショナルでなく、アマチュアによって作られたものなので、それは只だ。そして、只なのが、いつでもそのクオリティなのだ。そして、生活のために百科事典を書いていたかわいそうなマヌケに何がおこったか。彼らはしなびて死んだのだ。ブログやほかのフリーのオンラインコンテンツが昔気質の新聞紙や雑誌に対抗する事が同じような事として起っている。もちろん、メインストリーム・メディアはブロゴスフェアを競争相手としてみなしている。競争相手だ。そして、競争の経済のもとでは、それは、優位な競争相手になるという結果をまねくかもしれない。私たちが最近見たメジャーな新聞紙の一時解雇は、ただの始まりかもしれない。そして、その一時解雇は喜ばしい事ではなく、絶望を引き起こすものだ。有頂天のWeb 2.0のビジョンに隠されているものは、アマチュアの支配なのだ。私はこれより恐ろしいものは想像できないと考えるものの一人だ。
「我々がWebだ」のなかで、ケリーが書いている。「クリエイションと配布が簡単なので、オンラインカルチャーはカルチャーなのだ。」私は彼が間違っている事を願うが、彼が正しい事を恐れもしている。あるいは、彼の言う事が正しくなる事を。
好むと好まざるとに関わらず、Web 2.0は、Web 1.0のように、道徳とは無関係なのだ。それは、ひとセットのテクノロジーであって、生産と消費の経済の形を変えるマシーンであり、大文字のマシーンではないのだ。結果が悪かろうと良かろうと関係ない。それが、私たちを高い意識に導こうが、低いところだろうが関係ない。私たちの文化を消し去ろうが、引っ張ろうが関係ない。私たちを黄金時代に導こうがダークエイジに導こうが関係ない。だから、ミレニアリストのレトリックで。そして、私たちが望むようにでなく、あるがままの事柄を見ようではないか。
追記 2005/12/14(重要)
タイトルの「Web2.0の不道徳」は不適切との指摘を受けました。すでに方々からリンクを張られていたため、コメント欄に誤りを付記するにとどめ、変更を躊躇していたのですが、やはり誤訳は誤訳なので訂正する事にします。躊躇しても事態はよけい悪くなるだけでした。反省。それに合わせて本文の言い回しも多少いじりました。
※山形さんから邦訳の案をいただきました。ありがとうございます。
追記 2010/5/5
とある読者の方から翻訳案についての指摘を頂きました。以下の部分に付いて反映させました。とある方、ありがとうございました!
※1
- 訂正前: 物理的な世界の限界を超えるものを探す人にとって
- 訂正後: 物理的世界を超越しようとする者にとって
※2
- 訂正前: 知性や、共同体や、伝統のしがらみや、貧弱な自身の身体性において、古くさいしがらみから解放する旅
- 訂正後: 知性や、共同体や、そしてこの貧弱な肉体における、古くさいしがらみから解放する旅
※3
- 訂正前: デジタルの夢は覚め
- 訂正後: デジタルに覚醒するという夢は
※4
- 訂正前: ニューエイジでなく、下世話な欲望のバブルがぽんぽん飛び出る期待はずれの共有地になったのだ。
- 訂正後: ニューエージではなく、下世話な欲望のバブルがポンポンはじける、がっかりするほどありふれた世界がやってきたのだ。
※5
- 訂正前: しかし、高い意識へのあこがれはバブルをはじけさせることはなかった。
- 訂正後: しかし、高い意識へのあこがれはバブルとともに弾ける事は無かった。
※5
- 訂正前: ハイパー・ハイパー
- 訂正後: 大騒ぎの的になっている
※6
- 訂正前: 最近のWiredの記事でのインターネットの知識人、ティム・オライリーのプロフィールで
- 訂正後: 最新号のWiredの記事でインターネット知識人、ティム・オライリーの紹介で
※7
- 訂正前: 彼はオライリーを引用して「テクノロジーを媒介としたものであると知らなかったことを除くと、今日のインターネットは、私たちが70年代のエサレン「ニューエイジ本部(HQ)」について話していたものの繰り返しである。
- 訂正後: 彼はオライリーの言葉を引用して「今日のインターネットは私たちが70年代に[ニューエイジ本部の]エサレンで語ってきたことの反響だ--テクノロジーによってもたらされるとは思っていなかったがね」
※8
- 訂正前: レビーはそしてこう問う。「インターネット、もしくはオライリーの言うWeb 2.0になるのかと問うことは、人類の潜在能力の運動と、本当に取って代わるものになり得るのではなかろうか?」
- 訂正後: レビーはそれに続けて問う「インターネット - あるいはオライリーがWeb2.0と呼ぶもの - は本当に人類の潜在能力のムーブメントを承継するものなのだろうか?」
※9
- 訂正前: の余波として掲載される
- 訂正後: の余波の中で掲載された
※10
- 訂正前: ケリーはかつての「Long Boom」の代弁者で、World Wide Webの開発に従事し、10年前のNetscapeの新規株式公開から、「マジック・ウィンドウ」が「驚くべき神業的な」存在への視点になると結論づける。「天使が人間よりすばらしい視点を持っているかどうか疑わしい」と彼は記している。
- 訂正後: かつて「ロングブーム」の預言者であったケリーは、10年前にネッストケープが新規株式を公開して以来のWorld Wide Webの発展を概説し、この世界に存在するものごとについて「不気味なほど神に近づいた」視野を与えてくれる「魔法の窓」となったと結論付ける。
※11
- 訂正前: 「天使が人間よりすばらしい視点を持っているかどうか疑わしい」
- 訂正後: 「天使でもこれほど人類を見渡せるとは思えない」と彼は記している
※12
- 訂正前: しかし、それはまだ序の口にすぎない。ケリーによると、将来的にはWebは神のビジョンだけでなく、そのパワーを保証するだろうとのことだ。
- 訂正後: しかし、それはまだ序の口にすぎない。ケリーによれば、将来的にはWebは神の視野だけでなく、そのパワーを授けるだろうとのことだ。
※13
- 訂正前: WebはインターネットにフィットするメガコンピュータのOSになりつつあり、すべてのサービスと、すべての周辺チップと、スキャナーからサテライトにいたる、周辺デバイスとたくさんの人間の意識を、グローバルネットワークの中にまとめあげるものになるだろうと。
- 訂正後: WebはインターネットにフィットするメガコンピュータのOSになりつつあり、そのすべてのサービス、周辺機器たるチップ全て、繋ぎあわされたスキャナーから人工衛星に至るまでのあらゆるデバイス、そしてこのグローバルネットワークに巻き込まれた何十億もの人間の意識を包み込むものになるだろう。
※14
- 訂正前: 私たちはその中で生きている。
- 訂正後: 私たちはこのようなものの中で生きることになるのだ。